デビアス社の歴史とダイヤモンド産業(1)
昨年末、「絆story」というコンセプトのもとフォーエバーマーク エンコルディア コレクションを発表したデビアス。
「愛の誓いとして、信頼で結ばれた友情の証として、そして、数多くの人との絆に支えられて仕事を頑張ってきた自分のご褒美として」エンコルディア コレクションは、いかが、と謳っています。
そこで、まず、デビアスを知るために、「デビアスの歴史とダイヤモンド産業」について簡単にまとめたものをお読みください。
1.ダイヤモンド産業の黎明
古代、唯一のダイヤモンドの産地はインドでした。川の流域などで見られる漂砂鉱床は、ダイヤモンドを含む源岩が風化、浸食され、川の流れに運ばれて堆積したものです。ダイヤモンドの比重が重いため、川の流れの途中で川底の砂礫層の中に堆積します。ものによっては、海岸の砂礫層や沿岸の海底に堆積します。当時、ほとんどが人海戦術による採鉱にすぎませんでした。
ちなみに、ダイヤモンドの母岩であるキンバーライトやランプロアイトは地下100m~1kmでパイプ状に鉱床を形成しています。このようなパイプ鉱床の現場では、近代的な大規模な施設を建設し採掘しています。キンバーライトやランプライトに占めるダイヤモンドの含有率は濃密で巨額の投資に見合うからです。
さて、1730年代になって、ブラジルが産地として登場します。ブラジル産のダイヤモンドは、それまで細々と産出していたインドに比較して膨大な量がありました。これが契機になって、ダイヤモンド加工工場がアムステルダムやアントワープに始めて設立されます。家内工業から産業への黎明になります。これらの貿易、加工、販売の全てがユダヤ人の手によってなされていました。
しかし、ブラジル産ダイヤモンドは、1860年代には枯渇し始めます。そのとき、南アフリカで新しい大鉱脈が発見されます。1899年から1902年にかけて起きたボーア戦争は、ボーア人が支配する共和国での黒人開放と、英国系外国人居住者の地位確保が主な理由とされていますが、英国の真の目的は、南アフリカで発見されたキンバレーのダイヤモンド鉱山とトランスバールの金を経済的に支配することであったとも言われています。
アフリカ南部のダイヤモンドの埋蔵量は、膨大で、1870年代にわずか10万カラットであったものが、1913年には600万カラットになりました。しかし、このような過剰生産は、ダイヤモンドの価格を非常に不安定にしました。
2.セシル・ローズのデビアス社
セシル・ローズは、ユダヤ系の資本であるロスチャイルドの後ろ盾で、デビアス鉱山会社(De Beers Consolidated Mines)を設立し、1988年にキンバリー鉱山を合併します。その後、ウェッセルトン(Wesselton)、ヤーガースフオンテイン(Jagersfontein)などの鉱山群を買収し、19世紀末にが当時の生産地の9割を支配するようになります。
しかし、セシル・ローズが死去した1902年には、プレミア鉱山が発見され、ナミビアの巨大な漂砂鉱床が発見され、デビアス社の支配は低下していきます。
3.オッペンハイマーの独占
ドイツ系ユダヤ人のオッペンハイマーは、1917年、金生産のアングロ・アメリカン社を設立し、その後、コンソリデイテッド・ダイヤモンド・マインズ社(CDM)を設立し、ダイヤモンド業界に進出しました。そして、1926年のデビアス社の役員になり、1930年にはデビアス社の会長になります。このオッペンハオマーにより、ダイヤモンド生産業者を支配する機構が創り上げられることになります。
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